仏教や武道などの東洋における身体論を知るには湯浅泰雄氏の
『身体論―東洋的身体論と現代―』(講談社学術文庫)と
『気・修行・身体』(平河出版社)がお薦めです。
「心身一如」という言葉があるように、心と身体とは切り離せません。とくに身体のはたらきとして、意志の自由に従う体性神経(運動神経)と意志から独立した自律神経がありますが、湯浅氏は呼吸法や瞑想の訓練により自律神経機能を支配することができるとしています。
湯浅氏の武術や東洋の修行法の解説を読んでいくと、坐禅において調身(ちょうしん)・調息(ちょうそく)・調心(ちょうしん)といって、身体(姿勢)を調え、息(呼吸)を調え、心を調えることの合理性がよくわかります。
また、日本の武道について、仏教の修行の考え方から深い影響を受けているとし、武道における心と身体の関係も『気・修行・身体』に詳しく解説しています。その中で、合気道に注目している部分がありますので、紹介したいと思います。
「このように日本の武道は、仏教の修行論の影響を受けることによって、自己の精神を鍛錬し、向上させる技術という性質をもつものになっていきました。剣とは元来、武器です。護身あるいは殺傷のための道具です。それは他人と対立し、対抗し、他人に勝つことを目的としてつくられたものです。ところが、剣技の訓練の究極の目的は、他人に勝つためではなく、いわば自分に勝つための方法に変わってしまったのです。『兵法家伝書』は、この変化を「殺人剣」から「活人剣」への変化としてとらえています。近代の合気道などは、このような考え方をつきつめたところにうまれたものといえるでしょう。
合気道では、試合をして相手に勝つとか、勝負を争うということは目的にはされません。「合気」とは相手と気を合わせるという意味です。それは、相手の心身の動きと自分の心身の動きを合わせることですが、より一般的にいえば、相手と調和し、一体になり、他者を包容した自他一体の状態に至ることが目標であるわけです。このように、他人と対立し他人に勝つことを目標として生まれた武術が、自分自身に勝つ技術に変わり、さらに他人と和し、他人と一体になる技術にまで変わっていったところに、日本の武道というものの重要な思想史的意義があると思います。」(『気・修行・身体』P60)
仏教には「薫習(くんじゅう)」という言葉があります。薫習とは香りを衣服に薫じ付けるつけるように心に染み込ませることをいいます。
何事においても、身体を使って何度も繰り返し訓練することで、自然に「身体で覚える」「身体に染み込ませる」ことが大切です。
武道の中でも合気道では試合がありません。繰り返し反復稽古をすることで技を覚え、気を鍛錬していきます。
仏教においてお経やお念仏を繰り返しお唱えすることも同じです。仏教では身(しん)・口(く)・意(い)といって身体と言葉と心の働きを三業(さんごう)と呼んで重視し、また、仏教に限らず、宗教においては信(しん)と行(ぎょう)、信仰と実践が説かれます。繰り返し修行することでそれぞれが相関しあいながら深くなっていきます。
また、禅の思想と合気道については、人文書院から出版されている
『禅と合気道』(鎌田茂雄・清水健二)をお読みいただきたいと思います。