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常が大事

大晦日になって大掃除に追われている方も多いかと存じます。

どなたの作だか存じませんが、こんな句があります。

  それみたか 常が大事じゃ 大晦日

大掃除以外にも今年一年間にやり残したことが沢山あるかと思いますが、大晦日という一年の節目があるから反省の心が起こるのだと思います。

常日頃から掃除をしていれば大晦日になっても慌てないように、常日頃からお念仏を唱えて、日々の生活を反省しながら充実した毎日を過ごしたいものです。人生の大晦日になって慌てないように…。

今年も残りあと数時間ですが、どうぞ良いお年をお迎えください。
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御身拭式(おみぬぐいしき)と大掃除

12月25日はクリスマスですが、浄土宗の総本山、京都の知恩院では毎年「御身拭式(おみぬぐいしき)」が行なわれています。

御身拭式とは、お像を拭う行事で、ご本尊や祖師のお像を掃拭し、衣を取り換える等を行なう儀式です。

知恩院の御身拭式は、普段は厨子の中に安置されている法然上人の坐像が運び出され、お念仏が唱和される中、羽二重の布で法然上人の御尊像の埃を払い、再び厨子の中へと安置します。

一般の家庭でも、年末に大掃除をする方が多いと思いますが、寺社仏閣においては煤払い(すすはらい)と称して、歳末の恒例行事としている所もあります。

最近は大掃除の習慣が薄れてきたり、大掃除の時期をずらして暖かい時期に大掃除をする風潮もみられるようです。

お盆やお正月は御先祖様をお迎えする時期ですので、せめてお仏壇や神棚の周りは綺麗にしておきたいものですね。



紅白

年末といえば大晦日のNHK紅白歌合戦です。

大河ドラマの「平清盛」は最終回を迎えましたが、紅白の起源は源氏が白旗を平家が赤旗(紅旗)を用いて戦った源平の戦いに由来するといわれています。

紅白で対抗することは子供の運動会でも用いられますね。

勝った源氏が白旗を挙げているの変な感じがしますが、白旗が降参を表すのは西洋から入ってきた習慣のようです。

紅白の起源の異説としてエジプト起源説というのもあるようです。
古代のエジプトは下エジプトと上エジプトに分かれていましたが、下エジプトで用いられていた冠(デシュレト)が紅色の冠で、上エジプトで用いられていた冠(ヘジェト)が白色であり、下エジプトと上エジプトの南北が統一されてプスケントという古代エジプトのファラオが着用する紅白の冠ができたとういうことです。
おめでたいお祝いの意味で紅白の色を用いますが、この冠が南北統一の象徴であることからきているとか…。

幕にも紅白がありますね。
しかし、一般的に慶事で用いられる紅白幕よりも弔事で用いられる黒白幕(鯨幕)や青白幕(浅黄幕)のほうが歴史が古く、本来は黒白幕は弔事・慶事に関係なく使用されていたようです。
現代でも皇室行事で黒白幕が結婚の儀などの行事で使われているようですし、新年祝賀の儀や園遊会などでは青白幕(浅葱幕)も使用されているようです。
喪服が明治になって西洋からの影響で白から黒になったように、紅白幕は歴史が浅いようですね。

マヤ暦による終末思想

マヤの長期暦が2012年の冬至付近(12月21日~23日)に一周するということで、世界の一部では終末思想が社会問題になっているようです。

日本でも199年7月にはノストラダムスの大予言がことさらに取り上げられましたが、終末思想に踊らされないように注意しなければなりません。

もともと西洋は直線的な終末思想をもっていますが、東洋では周期的な循環思想をもっており、世界の終わりという概念はないようです。

どのような暦を使っていても、暦が変わる大晦日から元旦にかけては騒ぎたくなるのでしょう。もともとハロウィンもケルトの暦の切り替わりが起源ですから。

『ぼくらの昭和オカルト大百科 70年代オカルトブーム再考』(初見健一著、大空ポケット文庫)という本が最近出版されました。その本では、日本では1973年からオカルトブームが起こったとして、その後の昭和のオカルトブームを振り返り、ノストラダムスの大予言の終末論をはじめ、UMA(未確認生物)、超能力、UFO、心霊を取り上げています。

オカルトという見えない世界は少なからず誰もが興味を持つものでしょう。森達也氏は昔に出版した『職業欄はエスパー』の続編として『オカルト 現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ』(角川書店)という本を今年に出版しています。『オカルト』という題名は、一昔前のコリン・ウィルソンの本を思い出す人も多いかもしれません。

単に肯定派・否定派というのではない立場から、不思議な世界を楽しんでいきたいですね。ただし、不思議な世界を悪用したり騙したり不安を煽ったりする人たちや情報には十分注意してください。

仏教と武道の身体論

仏教や武道などの東洋における身体論を知るには湯浅泰雄氏の『身体論―東洋的身体論と現代―』(講談社学術文庫)と『気・修行・身体』(平河出版社)がお薦めです。

「心身一如」という言葉があるように、心と身体とは切り離せません。とくに身体のはたらきとして、意志の自由に従う体性神経(運動神経)と意志から独立した自律神経がありますが、湯浅氏は呼吸法や瞑想の訓練により自律神経機能を支配することができるとしています。

湯浅氏の武術や東洋の修行法の解説を読んでいくと、坐禅において調身(ちょうしん)・調息(ちょうそく)・調心(ちょうしん)といって、身体(姿勢)を調え、息(呼吸)を調え、心を調えることの合理性がよくわかります。

また、日本の武道について、仏教の修行の考え方から深い影響を受けているとし、武道における心と身体の関係も『気・修行・身体』に詳しく解説しています。その中で、合気道に注目している部分がありますので、紹介したいと思います。

「このように日本の武道は、仏教の修行論の影響を受けることによって、自己の精神を鍛錬し、向上させる技術という性質をもつものになっていきました。剣とは元来、武器です。護身あるいは殺傷のための道具です。それは他人と対立し、対抗し、他人に勝つことを目的としてつくられたものです。ところが、剣技の訓練の究極の目的は、他人に勝つためではなく、いわば自分に勝つための方法に変わってしまったのです。『兵法家伝書』は、この変化を「殺人剣」から「活人剣」への変化としてとらえています。近代の合気道などは、このような考え方をつきつめたところにうまれたものといえるでしょう。
 合気道では、試合をして相手に勝つとか、勝負を争うということは目的にはされません。「合気」とは相手と気を合わせるという意味です。それは、相手の心身の動きと自分の心身の動きを合わせることですが、より一般的にいえば、相手と調和し、一体になり、他者を包容した自他一体の状態に至ることが目標であるわけです。このように、他人と対立し他人に勝つことを目標として生まれた武術が、自分自身に勝つ技術に変わり、さらに他人と和し、他人と一体になる技術にまで変わっていったところに、日本の武道というものの重要な思想史的意義があると思います。」(『気・修行・身体』P60)

仏教には「薫習(くんじゅう)」という言葉があります。薫習とは香りを衣服に薫じ付けるつけるように心に染み込ませることをいいます。
何事においても、身体を使って何度も繰り返し訓練することで、自然に「身体で覚える」「身体に染み込ませる」ことが大切です。
武道の中でも合気道では試合がありません。繰り返し反復稽古をすることで技を覚え、気を鍛錬していきます。
仏教においてお経やお念仏を繰り返しお唱えすることも同じです。仏教では身(しん)・口(く)・意(い)といって身体と言葉と心の働きを三業(さんごう)と呼んで重視し、また、仏教に限らず、宗教においては信(しん)と行(ぎょう)、信仰と実践が説かれます。繰り返し修行することでそれぞれが相関しあいながら深くなっていきます。

また、禅の思想と合気道については、人文書院から出版されている『禅と合気道』(鎌田茂雄・清水健二)をお読みいただきたいと思います。
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清岸寺

Author:清岸寺
清岸寺・住職の弘之(お坊さん読みでコウシ)です。
学歴:大正大学人間学部仏教学科卒業、大正大学大学院修士課程修了。
趣味:読書、映画鑑賞、合気道(合気道歴20年)。

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